◇匂　い　（一）◇
　突然、電車に怖くて乗れなくなった。車中に入ると、周りの人が鼻に手をやる、鼻を鳴らす。最初のうちは、何が何だか分らなかった。
　それは或る日の会議からだった。前に座った小柄な課長が鼻をスースーといわせ、鼻を頻りに擦すっている。その横の課長も同じ動作をやっている。その原因が自分だと気付いたとたんにおかしくなった。口臭か、体臭か、おならか。思い当たる節はあった。最近少し下痢気味だった。いや、朝に出る便が異常に臭かった。糠漬けに近い匂いだった。そういえば、タクシーの運転手が鼻をスースー鳴らせた時は、なんと失礼な、と思っていたが、それには理由があった訳だ。が、そんなにガスか体臭が、私から、のべつ幕無しに出ているのだろうか。
　確かに、私の食事時間は不規則になっていた。会社でカップラーメンを食べ、或いは、英会話のクラスの後で食事をして、十一時頃家で夜食を摂って寝る。コーヒを少し飲み過ぎたかもしれない。一時頃までテレビを見ながらの本読みで、眠気が来るとチョコレートを食べた。寝起きの爽やかさを感じることもなくなっていた。小便をした後の便器に泡が何時までも残った。気にはなっていたのだが、さしたる不便もなく来たものだったから・・・
　コーヒを止め、野菜と果物の多い食事に変え、夕食も早く摂れる時刻に帰宅するようにした。一週間もそんな生活を送れば、元の、さしたることもない生活に戻れるはずであったが・・・
　社内の会議では相変らず多くの人が鼻を擦り、押えた咳をした。事務室でも、換気には気を付けたが、それでも、匂いを嗅ぐ音がし、頻りに鼻水を吸い上げる音がした。会議自体が落ち着かなくなる。
　電車では、私の横にいた娘さんが涙を出す、おばさんが咳込む、若い男は鼻汁を出し、ざわついた車内に原因を探す視線が交差する。伊丹空港の人混みにあってすら、三、四人並んだグランド・スチュワーデスが、私とは１メートルも離れているのに、一斉に鼻を擦する。
　一体、人の匂いとはどの程度広がるのであろうか。冬の、風の無い朝の駅で、人の吐く息が１メートル程の範囲に白く漂っていたことがあって、多分それが体臭の匂う距離であろうと思っていたが・・・・。
　それは、大阪のガラス会社が集まった研究会での出来事だった。私の横に座った特殊ガラス会社の社長がくしゃみをすると、ハンカチを出して鼻を拭き始めた。鼻汁は何時までも止まらず、会議の間ずっと鼻を拭き続けていた。その後の立食会で私がその社長の側にゆくと、彼は直ぐに塵紙を出して鼻をかみ始めた。ビールやオードブルの匂いの為か、他の人はさしたる反応はなかったので、安心をしたところだったので、たまらず、私は立食会を抜け出して帰らざるを得なかった。
　また、或る時、私は比較的空いた電車の中ほどに座っていたが、車両の前方で、旅行用の衣服をまとった婦人が立て続けにくしゃみを始めた。その間距離にして１０メートルはある。白いハンカチを出し鼻を押さえ、周りの人に何かしきりに弁解している。そんな状態が５分ほど、終着京都駅まで続いた。
　また、あれは講演会を聴きにいった時の事だった。講堂の後ろ隅に席を取った。空調設備は良く整っていた。が、講演が始まる頃には、咳が騒がしく聞こえ始めた。私は名指しで退席命令が出ぬかと、本気で不安を感じた。

　朝の何時もの通勤列車に乗り辛くなり、時間を早めたり、ＪＲや、地下鉄の迂回路を採ったりした。夏であったが、冷房車ではなく窓の開いた車両が来た時はどれほどホットしたことか。そんな車両を待って３０分はホームで時間を過ごした。挙げ句の果ては、いつもより３０分も余分に歩いて、大阪に未だ残っている『渡し』のある道を採り、バスに乗らなくて済むルートを利用するのが常になった。
　電車に乗り込む時は緊張の余り胸の鼓動が早くなったし、くしゃみを聞くと心臓が縮みあがった。社内の昼の食堂でも咳を聞くと会話をする気持ちの余裕もなくなる。昼は近くの公園を歩く。出来れば、腹に溜まったおならを出しておきたい、と思ったからだ。退社後に語学スクールに立ち寄ることもなくなったし、電車の中でドイツ語の本を開けることもなくなった。やっと、辿り着いた家の燈が、これほど恋しく、安らぎを感じさせてくれるものだとは、今までは気付かなかった。
　体重が７ｋｇも減った。出張も、研究会もできれば行かないようにした。私がせっかく拡げてきた世界がどんどん縮み始める。仕事は軌道に乗せ始めたところだが、匂いが気になって落ち着いては取り組めない。
　あれはゴールデン・ウイークのときだったろうか、「五十才に成ってやっと、此迄の技術者としての経験が旨く纏まりだした」と、同窓会にたまたま取材に来た、テレビ会社のインタビューに胸を張って答えたばかりであった。これがこの様で、食後も、仕事中も心の焦りを押えることができない。
　信じられない不幸に見舞われてから三ヶ月目、重要な会議に遅れた。途中の車中で高校生が一斉に鼻に手をやったから、駅で二度トイレに通わねばならず、大阪駅構内のトイレは皆ふさがっていて、他に便所を探さねばならなかったためである。遂に、この恥ずかしい事柄で病院を訪ねざるを得なくなった。二十年以上も病院になど行った事がないほど健康だったのに、である。

　病院に先立って図書館でも調べてみた。『屁（へ）のガスが臭いのはビフィルス菌などの良いものに代わって悪い菌が増えたからです。老人になったり、不健康な生活、ストレスでおきます。』二十歳代で盲腸炎に罹り、手術が旨くいかず、結局、大腸の長さが人の半分になっている。この大腸が人より早く老いた可能性はないのか。
　転職したばかりで、替わった職場ではやり甲斐があったが、ストレスが溜まっていたのか。癌ができたからではないのか。いや、今の体調は良い、悪い所があれば熱が出るだろう。ただ、自分ではどうしようもなくって、熟睡ができなくなっている。不定愁訴が腸に悪いと思えば思う程、焦りが出てくる。
　医師はまだ若い人だった。「何とか、電車のなかでの悪臭を除けないか」という私の訴えに、「体温と検尿結果から見ると体の方は心配ありません。私には匂いません。あっても弱いものでしょう。医者は消化を助ける以外はなんともできません。これが何か重大な症状を表わしているという事はありません。」腸の病気からでないという事実に光明をみたが、生活の障害が除かれた訳では無かった。薬は最初は少し効いた様にも思われたが、結局何も変わらなかった。
　病院に行くにあたって、私は妻にその理由を説明した。妻は本気では取り合わなかった。しかし、妻の感覚を客観的と言えるかどうか。私が自分の匂いに鈍感なように、妻も私の匂いに疎くなっているのかも知れない。
　確かに反応は人によりけりだった。ある人は私が側を通るだけで咳込んだ。私の友達のＹ君は会って暫くすると、気の毒な位、兎の鼻のようにピクピクする。が、さほど臭くはないのか、時々コーヒ店に誘ってくれて私をホットさせてくれる。

　ある日、我家に東京で診療内科を営んでいる義兄が来た。私は、ひと通りの経過を説明して、「こんな事は珍しいでしょう？」　義兄は専門医らしく穏やかに聞いていたが、「良く有るケースです。この種の訴えの特徴は、患者に客観性が無いと言っても絶対に信じないことです。１０代に多いのですが、成人にも有ります。匂いを気にして内容物を出しておこうと、１０センチも肛門から腸を出したＯＬや、自殺した大学教授のケースも知っています。それだけ当人は深刻なのですが、本人以外の人は何とも思っていないのです。」、 と言われても、私の言っている真実を立証する為に、声高に咳込む車内の苛立ちを見せたり、本屋で私の肩越しに見る人が必ず苦しそうに喉に痰を詰まらせて通り過ぎる、この様子を見せるというのは余りにもばかばかしすぎる。
　天理市にある病院が好いと聞いてそこに行くことにした。医師の年齢は五十歳前後、こういった病の見立ての経験は十分と思う。私の悩みを一応聞いて、「無意識の内におならが出る、おならで咳や、涙が出るというようなことはありえません。僕は大腸が専門です。貴方の場合は感受性がハイパワーに成り過ぎているのです。閾値（いきち）をこえています。それに、今は未だ笑いながら話しをしているから、ノイローゼの域まではいっていません。これは、ご存知のように心療内科の問題です。私から紹介状を書きましょうか？」
　「心療内科では駄目なのです。現象に客観性が無いのがこの症状の特徴だそうですから。私のケースは、時と場所と相手に依って変わりますが、実際に起こっているのです。大腸が人より短くなっている事に原因はありませんか？」これ以上の説明は忙しい先生を煩わせるばかりである。「トランキライザーを出しておきます。少し続けてみて下さい。」ビオフェルミンが効いた気がする。それにつれて、不定愁訴も少なくなり、気分も前向きになってきている。だから、整腸を促進し、大腸の動きを緩やかにする手段が何かないかと思ったのだが・・・・内科に馴染まないということで、門前払いをされてしまった。
　若い娘が最も気にするのが体臭とかで、オーデコロンをつけたり腋にスプレーをしたりして、女子高校のロッカーも大変とは聞いていた。石鹸も脱香料とかの、今は無臭の時代だという。しかも、髪油ひとつ付けない自分が最も恥ずかしい匂いで他人に迷惑をかけているなんて。
　素人考えだが、私の場合はアンモニア性の刺激臭が出ているのではないか。たしか、そんな人間がいると、コナンドイルの「シャーロック・ホームズの冒険」中にあった。今なら、ガスクロマトグラフィーで簡単に検出できるはずだ。その明白さを、客観性を証明するために、例えば妻にその車内の咳込みの現場を見せればいいのか。擦れ違いざまにどれ程多くの人が空咳をするか、その極端な例は、私が傘をかけてあげた人の咳込みである。ただ問題は、それを証明してどうなるか、という点にある。

　病院からの帰りの電車の中で、向いの席に二人分を占めていたのは不精髭を蓄えたむさ苦しい老人だった。スポーツ新聞を見ながら米粒をパラパラこぼして巻ずしを食っていたが、やがて眠ってしまった。暫くすると、魚の臭が漂いはじめた。しかし誰一人として鼻を鳴らしたり咳込んだりする人はいなかった。くさい臭い程度では人は喉を鳴らしたり、咳込んだりはしないのだ。他人に不快な思いをきせている原因は、どうやら私のガスである。
　異常に気付いてから七ヶ月が過ぎて、いよいよ長期戦を覚悟した頃、社内検診の結果が返ってきた。血液検査、心電図、胃カメラ、全てＡランクの異常なし、体力測定結果に至っては１６歳も若く出た。事実体調は良くなっている。腰痛などは起こらなくなった。
　一方電車の中では、鼻を擦り、眼鏡を拭き、鼻水を啜り上げ、喉をいがらせ急に咳込む、これを、会議室の中でも経験しなければならない。人の輪に接近する時は風下から向かう、人より後を歩くことも習性になってしまった。何時も心がそこに引っ掛かっていて、机を立っても、何故机を立ったのか分らなくなるようなことも多くなった。

　まるで、カフカの『変身』の主人公ザムザのように、その原因が分らないままに自分でその原因を考え、対策を摸索しなければならない。
　匂いには過敏になった。風呂に入って見てみると、確かに尻穴から小泡が絶えず出ている。脱臭剤キムコを平たくしてパンツにしのばせる、などの実験もしてみた。ご婦人の香水は論外として、男性の髪油の甘さ、タバコの匂いは気になった。時として自分の匂いかと思わせるからである。匂いを嗅いで、原因が自分に有るかどうか分析する必要があったからである。
　時として、生理現象をもコントロールしなけれぼならない。電車や会議で漏らさないこと、漏れることはあるので匂いを薄くしなければならない。便の回数、持に異臭がないという点でビオフェルミンが効いている。匂いが出ているかどうかは自分の鼻を信じるより仕方がない。少し離れた場所の咳込みはその人のアレルギーの所為としよう。彼等の多くが咳止の薬を常備していることも分ってきた。
　微かに漏れるのは腸の自律神経の失調かもしれない。将来に対する不安のような焦燥感が、ガスの動きに対する過敏さが、大腸の過剰な動きとなって現れているのではないか。それでは、この精神的な弱さをどう乗り越えればよいのか。昔の体調に戻すにはどうすればよいのか。回答の得られない自問自答を繰り返しては、自分はこの憂鬱な病から当分逃げられないのかと観念し始めた。
　　　　　　　　　　　　　　　　（１９９０．０５）
−−（エッセイ　３２）匂　い　（２／３）に続く−−